日本史の偉人

五代友厚とは何した人?【”青天を衝け”渋沢栄一との関係も解説】

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大河ドラマ「青天を衝け」で、主人公渋沢栄一の盟友として登場する五代友厚。

NHK朝ドラ「あさが来た」で人気俳優ディーン・フジオカさんが演じて話題を呼んだ人物です。

この五代友厚を、同じディーン・フジオカさんが大河ドラマで「青天を衝く」でも演じることも話題を呼んでいます。

ドラマのなかで良く聞くことになる五代友厚ですが、その経歴や人物像はあまり知られていません。

今回は、その「知る人ぞ知る」人物、五代友厚が残した功績、「青天を衝く」の主人公・渋沢栄一との違いなどをご紹介していきます。

ズバリ、五代友厚とは何した人なのか?

五代友厚を一言で言うと、「希代の実業家」ということになるでしょうか。

盟友・渋沢栄一が「日本近代経済の父」と呼ばれたのに対し、五代友厚は「大阪の恩人」と呼ばれています。五代曰く「まさに瓦解に及ばんとする萌しきざし」であった大阪経済を立て直すため、大阪の商工業を立て直し、再構築を図った人物です。

国の為、人々の為に尽くした五代友厚。

数多くの人々の敬意を集め、その葬儀には一般から約五千人ほどの参列もあったと伝わります。

【もう少し詳しく】五代友厚とは何した人なのか?

薩摩藩士の子供

五代友厚は薩摩藩士・五代直左衛門秀尭の次男として薩摩・鹿児島城下に生まれます。八歳で学塾に通い始め、十二歳からは聖堂に進学して文武両道を学びます。

父・五代秀尭は地球の学問を好んだ人物のようで、同僚の家に所蔵されていた「万国地図」を借り、これを長男・友健に模写させたりしたと伝わっています。

五代友厚が諸外国に思い馳せるようになったのは、この父・兄の影響も大いにあったのかと思われます。

初めての渡航

1854年、ペリーが浦賀沖に来航すると日本国中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。この時、五代友厚は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮い立ったそうです。

幼少の頃に「万国地図」を見て育った影響でしょうか、五代友厚は諸外国や諸外国への渡航手段である航海術に思いを馳せ、徳川幕府が創設した長崎海軍伝習所に薩摩藩伝習生として派遣される道を選び、航海術を学びます。

1862年、五代友厚は水夫として幕府軍艦千歳丸に乗り込み、上海に渡航します。これが五代友厚にとって初めての海外渡航であり、この時上海で高杉晋作と出会っています。

欧州へ

上海渡航から三年が経過した1865年、五代友厚は藩命により薩摩藩遣英使節団の一員として英国に出発、欧州各地を視察して廻ります。

この時、ベルギーのブリュッセルにおいてフランス生まれの貴族にして実業家のシャルル・ド・モンブランと貿易商社設立の契約に調印しています。残念ながらこの契約は様々な要因が重なって失敗に終わりますが、この時の経験がのちの実業家・五代友厚を育て上げた一因となります。

1866年に帰国した五代友厚は薩摩藩の商事を一手に預かる会計係に就任します。

その後1868年に戊辰戦争が勃発。五代友厚も当然薩摩藩士として倒幕活動に奔走します。戊辰戦争の結果は薩摩・長州を中心とする新政府軍の勝利に終わりますが、その勝利は五代友厚が中心となって購入した西洋式武器の影響が大きくあったと言っても過言ではないでしょう。

大阪

1868年、明治新政府が発足すると五代友厚は大阪府権判事ごんはんじ権外国官権判事ごんはんじとして大阪に赴任します。

ここから、五代友厚の大阪における華々しい活躍が幕を開けます。

五代友厚は外国官権判事として英公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたる傍ら、大阪に造幣局を誘致したりします。初代大阪税関長となり、大阪における税関を開始させます。

大阪商工会議所設立

1869年、五代友厚は任官わずか一年で退官の道を選択します。窮屈な役人となるより、実業家の道を選んだという事でしょう。

退官したとは言え、新政府との結びつきは強く、その力を背景に紡績業・鉱山業・製塩業などの発展に尽くします。

戊辰戦争や維新の変動は大阪経済にも打撃を与えました。

これまで銀が主体であった商取引が廃止されたり、藩債(諸藩の債券)が整理されたことによって大阪の数多の富豪や両替商の資産が無くなってしまったりしたことが原因でした。

このような事態を打開し大阪経済を立て直す為、1878年に「大阪商工会議所」が設立されました。

五代友厚はこの商工会議所設立に向け「万が一、後で加盟を申し込んできても拒絶か、もしくは巨額の入会費を徴収することになる」と、後に「五代らしい」と言われた強引な勧誘で60人もの同志を獲得し、初代会頭に就任します。

大阪商工会議所の設立により、大阪の実業家達は相互扶助の姿勢を確立し、またドサクサに紛れて悪辣な金儲けを企む者を一掃したのです。

大阪商工会議所の創立委員には近代鴻池財閥の始祖となった鴻池幸富ゆきとみ、三井財閥当主の三井高寛、初代住友総理人の広瀬宰平さいへいなど錚々たるメンバーが顔を揃え、五代友厚はそれらを束ねる「会頭」として活躍したのです。

おわりに:五代友厚とは何した人?

大河ドラマ「青天を衝け」には渋沢栄一の盟友として登場する五代友厚。

渋沢栄一と同時代を駆け抜けた実業家であり、「東の渋沢、西の五代」と称された人物ですが、渋沢栄一と五代友厚にはたった一つだけ大きな違いがありました。

寿命です。

昭和六年まで生き、享年91歳と天寿を全うした渋沢栄一。
対して五代友厚は明治十八年、糖尿病のためにわずか49年の生涯を閉じてしまいます。

疲弊しきった大阪経済を立て直し、大阪を「東洋のマンチェスター」と呼ばれるまで育て上げ、「大阪の恩人」とまで呼ばれた五代友厚。

その早過ぎる死はあらゆる人に惜しまれ、大阪で行われた葬儀には約五千人もの参列者がいたと伝わります。

もし五代友厚が渋沢栄一のように天寿を全うし、長生きしたらどうなっていたのでしょうか。

薩摩に生まれ、今日の商都・大阪の礎を築いた五代友厚。その早過ぎる死は大阪のみならず、全国の人を嘆かせたのでした。