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【北条政子とは?】大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の”尼将軍”を解説

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三谷幸喜さんが「新撰組!」「真田丸」に続く三度目の脚本を書くということで話題を呼んでいる大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。

脚本を書かれている三谷さん自らが主人公の北条義時のことを「めちゃめちゃダーク。こんなダークな主人公が日曜の夜8時にいていいのか心配なくらい(笑)」と語るくらい、お世辞にも「清々しい」とは言えない時代を背景としたドラマです。

そのドロドロとした時代を担った一人と言って間違いないのが、今回取り上げる「北条政子」です。

鎌倉幕府初代将軍源頼朝の糟糠の妻にして、「尼将軍」という異名までとった「北条政子」とは如何なる人物だったのでしょうか。

その事績を辿ってみることにしていきましょう。

【ずばり解説】北条政子とはどんな人物?

北条政子は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した女性で、伊豆の有力豪族・北条時政の長女として生まれます。

平家との争いに敗れ、伊豆に「流刑」となって流された源頼朝と恋仲となり結婚します。

源頼朝はその後源平合戦を制して平家を亡ぼし、日本始まって以来初の武家政権である「鎌倉幕府」を樹立、初代将軍に収まります。北条政子は源頼朝の糟糠の妻としてその覇業を支え、頼家、実朝、大姫、乙姫という四人の子をもうけます。

源頼朝死後も夫の作品である鎌倉幕府を支え続けます。大河ドラマの題名にもなっている「鎌倉殿の13人」とは、源頼朝死後に二代将軍となった源頼家の独裁を抑制するために敷かれた「13名による合議制」のことを指しており、北条政子もそのなかに名は連ねておりませんが、隠然足る勢力をもっていたことが想像されます

二代将軍となった頼家、頼家死後三代目将軍となった実朝と相次いで我が子を不慮の事態で亡くしてしまった北条政子ですが、夫が作った鎌倉幕府を守る為に奮闘を続けます。

続く上皇方との争いである「承久の乱」では、動揺する鎌倉武士を鼓舞して鎌倉方を勝利に導き、「尼将軍」と言われるようになります。

夫・源頼朝の「作品」を守り通し、波乱の生涯を送った北条政子は嘉禄元年(1225年)、69歳の生涯を閉じます。

その墓所は次男・三代将軍源実朝の胴墓のとなりにひっそりと佇んでいます。




【北条政子とは?】生涯の年表まとめ

1157年(保元二年)
伊豆国に生まれる。

1177年(治承元年)
この頃、源頼朝と結婚する。

1180年(治承四年)
源頼朝、挙兵。源平合戦幕開け。

1185年(元暦二年)
平家滅亡。

1192年(建久三年)
源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる。鎌倉幕府の始まり。

1199年(建久十年)
源頼朝死去。二代将軍に長男・頼家が任ぜられる。

1200年(正治二年)
十三による合議制(鎌倉殿の13人)、開始。

1203年(建仁三年)
源頼家、幽閉。頼家は翌建仁四年に死去。次男・実朝が三代将軍となる。

1219年(建保七年)
源実朝、甥にあたる公暁(くぎょう、頼家の子)に暗殺される。北条政子は後鳥羽上皇に息子を将軍に迎えることを願ったが、上皇はこれを拒絶。

1221年(承久三年)
後鳥羽上皇、挙兵、承久の乱勃発。

1225年(嘉禄元年)
北条政子死去。享年六十九歳。

【北条政子とは?】さらに具体的に解説!!

北条政子とはどんな人物だったのでしょうか。残された北条政子の事績から、如何なる人物であったかを探ってみましょう。

流人の妻

永暦元年(1160年)、父・源義朝と共に挙兵した源頼朝ですが、一敗地に塗れ、父・義朝は謀殺、長兄・義平は処刑されてしまいます。

源頼朝は歳がまだ若かったせいか死罪にはならず、伊豆・蛭ヶ小島に流刑となります。

伊豆に流刑となった源頼朝はその地で北条政子と恋仲になってしまいます。

北条政子の父、北条時政は伊豆の官人であり、流刑に処せられた源頼朝の監視役でもありました。一説によると、父・北条時政が都に出張中に二人は恋仲となったとも言われています。

伊豆に帰国した北条時政は二人が恋仲となったことを知ってびっくり仰天、当初は頑強に反対します。

が、北条時政も可愛い娘の訴えには叶わなかったのでしょうか。最終的に二人の婚姻を認め、やがて北条氏は源頼朝の重要な貢献者となっていきます。

北条氏の力を借りた源頼朝は平家打倒を掲げて挙兵、最初こそ大惨敗を喫しますが、北条時政、そして北条政子の兄にあたる北条義時と共に安房国に逃れて再挙、東国の武士達の支持を続々と得て、最終的に鎌倉幕府を樹立するに至ります。

もし北条政子が源頼朝と結婚しなかったら、鎌倉幕府は誕生しなかったかも知れません。そう考えると、この二人の結婚は二人だけのものではなく、「日本の歴史上のターニングポイント」とも言える「超重要な結婚」と言えるかも知れませんね。




母として

源頼朝のと北条政子の間には4人の子供がいました。
長女・大姫、長男・頼家、次男・実朝、次女・乙姫の4人です。

北条政子の母としての愛情深さを物語る逸話が残されています。

源頼朝は敵対していた源義仲と和議を図るため、人質として預かっていた源義仲の長男・義高と大姫との婚儀をまとめます。大姫はこの時、わずか6歳でした。

しかし婚儀をまとめたあと、源頼朝と源義仲の関係は破局し、源義仲は討ち死にしてしまいます。

将来の禍根を心配した源頼朝は長男・義高の処刑を決意、それを聞いた大姫は義高を鎌倉から脱出させますが、追手につかまり入間河原で討ち取られてしまいます。

この報せを聞いた大姫は魂を打ち消すほど悲嘆し、精神を病んでしまいます。

北条政子は我が子大姫のこの悲嘆を嘆き悲しみ、大姫の快癒を願ってしばしば寺社に詣でますが、大姫の病状は一向に良くなりません。

ついには「相手が帝であれば大姫も喜ぶであろう」と、後鳥羽天皇への入内も協議しますが、大姫はこれをも拒みます。

北条政子は幾度も加持祈祷を行いますが、大姫は源義高を忘れられないまま、わずか20年の短い生涯を閉じてしまいます。

大姫だけではなく、北条政子の4人の子供はいずれも非業の死を遂げています。

長男・頼家は北条政子の実家、北条氏の手兵によって伊豆修善寺で討たれ、23年で生涯を終えていますし、次男・実朝は長男・頼家の子である公暁くぎょうに襲われ、落命しています。享年28歳でした。

次女・乙姫も病気の為、14歳で落命しています。

4人の子供の相次ぐ非業の死は、北条政子の人生に暗い影を落としたことでしょう。

逆説的ではありますが、これら4人の死があったからこそ、北条政子は「夫の作品」である鎌倉幕府を守ることに全力を注いだのかも知れません。

尼将軍

相次いで3人の子を亡くした北条政子にとって「最後の生き残り」の子供である次男・実朝も鶴岡八幡宮で甥(長男・頼家の子)公暁に討たれ、ここに鎌倉幕府における源氏の正統は途絶えてしまいます。

北条政子は三代将軍・実朝の葬儀を終えると「鎌倉殿」として政務を代行することになります。

源氏の正統が途絶えてしまったので、北条政子は後鳥羽上皇に使者を送り、皇子を四代将軍に迎えることを願いでます。この頃から朝廷方では北条政子を正式に「将軍代理」と認識したようで、「尼将軍」と呼び始めます。

皇子を将軍の望む鎌倉幕府の望みは後鳥羽上皇によって断ち切られ、幕府と朝廷方の対立は日増しに深くなっていきます。

ついに後鳥羽上皇は皇権復活を目指して挙兵、これを聞いた鎌倉武士たちはひどく動揺します。源頼朝が「日本史上初めての武家政権」を築いてまだ30年あまり。それまで日本を文字通り支配していた朝廷への「畏れ」というのは、やはり武士達の心に依然として大きかったのでしょう。

鎌倉武士達が「どちらにつくか」と逡巡している様子をみて、北条政子は立ち上がります。

鎌倉武士を一堂に集め、「故右大将(頼朝のこと)の恩は山よりも高く、海よりも深い。今こそ上皇の近臣を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、上皇方に味方をしたいものは申し出て、そちらに参じるがよい」と、鼓舞とも開き直りとも取れる演説を行います。

この北条政子の演説は鎌倉武士達の心を大いに動かしました。「故右大将の恩」を思い出し、源頼朝と一緒に平家を打倒し、日本初の武家政権を築いた誇りを思い出したのでしょう。鎌倉武士達の動揺は一気に収まり、19万騎という大軍になって都になだれ込みます。

後鳥羽上皇は狼狽し早々に降伏、隠岐島に流刑となります。

世にいう「承久の乱」と言われたこの鎌倉幕府と朝廷の争い、幕府方を主導しその血を吐くような演説によって鎌倉武士の心を決めさせ、「夫の作品」を守り通した北条政子。まさに「尼将軍」の名にふさわしい勇ましさですね。




おわりに:北条政子の本名?

世に「尼将軍」と称され、「夫・頼朝が作った鎌倉幕府を命がけで守り通した烈女」というイメージもあり、非常に高名な北条政子ですが、実は「政子」というのは本名では無いというのが通説です。

彼女の名前は父・時政から「政」の一字を取って命名された後世での呼び名に過ぎず、彼女自身が「政子」と名乗った事実は確認されていないのです。

ちなみに、長女・大姫、次女・乙姫ともそれぞれ「長女」「次女」を意味する通称で、大姫の本名は一幡いちまん、乙姫の本名は三幡さんまんではないかと言われています。

長男・頼家は幼名を万寿といったと言われており、次男・実朝は千幡せんまんだったと言われています。

字は違いますが、全ての子供に「幡(万)」の字がついているところから、もしかしたら北条政子の本名も「幡」の字がついていたのかも知れませんね。

源氏の守り神は「八幡大菩薩」であり、武士が勢力を大きく伸ばすきっかけとなった源氏中興の祖・源義家は通称を「八幡太郎」と言いました。

もし、北条政子の本名が「八幡」だったとしたら。

伊豆の地に流刑となり、将来を悲観していた源頼朝の前に突然現れた守り神を意味する「八幡」という名をもった女性。

「この女性こそ、正しく天の使いに違いない」と思った源頼朝と、「そうか、私は生まれながらにしてこの人の守り神だったのか」と思った北条政子。

二人はやがて、その間に生まれた子供に「一幡」「千幡」「三幡」と守り神の名前を一字貰って名づけていった。

鎌倉幕府の成立の影には実はそんな物語があった、などと想像すると楽しくなりますね。(実際には北条氏は平氏を称しており、源氏の守り神である「八幡」と言う名を娘につけるとは思えませんが)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終了するまでに北条政子の本名が発見されることは難しいかも知れませんが、この先何らかの形で発見されると良いですね!