日本史の偉人

【どんな性格だった?】新撰組メンバーの一覧を分かりやすくご紹介します

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幕末最強の剣客集団として名を馳せ、時代のあだ花として咲き誇り散っていった「新撰組」。歴史ファンの間で未だに根強い人気を誇り、小説、映画、ドラマの題材として取り上げられることも多いです。

新撰組とは如何なる組織で、その新撰組を構成していたメンバーはどのような人々だったのでしょうか。
概要や性格などを一覧にしながら、分かりやすいよう簡潔にご紹介していきます!

Contents

メンバー一覧を紹介する前に。新撰組とは?

新撰組とは幕末の京都に誕生した幕府側の警察組織です。

浪人や百姓出身の者が多く、結成当初は「壬生浪士組(浪士とは正規の主君を持たない事を意味します)」と言い、正規の武士集団ではありませんでした。
のちに京都守護職・会津藩主松平容保の「お預かり(非正規雇用)」となり、更に後には正式に幕臣となっています。

新撰組のメンバー一覧(概要、性格など)

新撰組の組織はその時の状況に合わせて何度か改変しています。ここでは新撰組最盛期と言っていい元治元年あたりの組織を例にとってみます。

「局長」をトップとし、その下に局長を補佐する「副長」を据えています。副長と同列もしくは少し上の地位として、局長個人のスタッフといっていい「総長」「参謀」を置いています。更にその下に実戦においては一隊を率いる組頭となる「副長助勤(組長)」を配置します。

他に、市中警護の実戦部隊とは独立して内務観察を行う「観察方」、会計担当の「勘定方」などの独立した組織も併せ持っていました。

ここでは前身である壬生浪士組も含め、新撰組メンバーのなかでも著名な人物を取り上げてみます。

新撰組メンバー:【豪胆無比の暴れん坊】筆頭局長・芹沢鴨

新撰組局長首座 芹沢 鴨 (集英社文庫)

水戸藩浪人。常陸国真壁郡芹沢村の出身と伝えられていますが真相は明らかではありません。その前半生は謎に包まれており、水戸の攘夷派集団・天狗党の一員だったとも言われています。壬生浪士組結成に配下の水戸派を引き連れて参加、壬生浪士組の初代筆頭局長となります。八月十八の政変で豪胆なところを見せ勇名を馳せますが、酒に酔っての粗暴の振る舞いも多く、近藤ら試衛館一派によって粛清・暗殺されます。剣の流派は神道無念流、免許皆伝と伝わります。




新撰組メンバー:【芹沢鴨の右腕】局長・新見錦

芹沢鴨と同じ水戸出身で、その右腕とも目されます。流派も芹沢と同じく神道無念流免許皆伝で「達人之趣ニ御座候」という風説が残されてます。壬生浪士組が結成されると芹沢と同じ局長に任ぜられたとも副長となったとも言われています。謎の多い人物であり、「本名は田中伊織」とする説や「新撰組名簿に名前が無いので架空の人物では無いか」など諸説入り乱れています。映画や小説ではニヒルな性格で描かれ、どちらかというと「嫌な奴」として表現されることの多い人物です。

新撰組メンバー:【一本気な天然理心流四代目】局長・近藤勇

近藤 勇 [ポスター]

多摩の百姓の家に生まれ、天然理心流三代目・近藤周斎に剣の腕を見込まれて養子に入り、後に四代目宗家となり試衛館道場の道場主になります。壬生浪士組結成時に局長に就任、そのまま新撰組でも局長を勤め、池田屋事件や禁門の変で活躍、新撰組の名を天下に知らしめます。幕府方政局の大立者となりますが、鳥羽伏見で一敗地に塗れると失意のうちに江戸に帰郷、甲州勝沼でも敗れた後、下総流山で新政府軍に投降、板橋にて刑場の露と消え果てます。

新撰組メンバー:【穏やかな知恵者】総長・山南敬助

仙台脱藩の浪士、北辰一刀流で修行したのち、近藤勇の試衛館道場の門人となります。壬生浪士組結成時は副長となりますが、のちに総長となります。一説によれば、こ総長就任がいわゆる「たな晒し」状態で、山南個人もこれに不満を抱いていたと言われています。これが原因だったのか、その直後に脱走を図りますが捕縛され、壬生の屯所で切腹して果てています。温厚な性格だったらしく、壬生界隈では明治のはじめ頃まで「親切者は山南・松原」という言葉が残っていたと伝わります。

新撰組メンバー:【泣く子も黙る鬼の副長】副長・土方歳三

土方歳三 ポスター グッズ 雑貨 インテリア 新撰組

武州多摩郡石田村の農家出身。幼少の頃から手がつけられない悪童で、丁稚奉公に出されても問題を起こして逃げ帰った等の逸話が残ります。その後は家業の薬の行商をしつつ天然理心流道場で剣の修業を続け、浪士組結成の報を聞くと近藤らと共に上京、以降一貫して副長として近藤を支え続けます。新撰組の組織構成は殆ど土方の手に寄るものと言われ、新撰組強化の為には隊内粛清も躊躇わず実施した事等から「鬼の副長」の異名を取ります。近藤が投降した後も戦い続け、最後は函館一本木関門付近で敵の銃弾に倒れ、その生涯を閉じます。




新撰組メンバー:【白面怜悧の策略家】参謀・伊東甲子太郎

常陸志筑藩士の子と伝わります。北辰一刀流伊東道場に入門し、その力量を認められて婿養子となった事から「伊東」と名乗ります。元の苗字は「鈴木」と言ったらしいです。文武両道を地で行く人物であり、容姿端麗で弁舌もさわやか、まさに「完璧超人」と言っていい人物と伝わります。新撰組入隊後参謀職を務めますが、思想の違いから離脱。御陵衛士と呼ばれる反幕府・勤皇方の一派を作ります。最後は「策士、策に溺れる」の例えそのままに、油小路で騙し討ちにあって暗殺されてしまいます。

新撰組メンバー:【不世出の天才剣士】一番組組長・沖田総司

沖田総司 (新人物文庫)

陸奥白河藩士の子として生まれますが、父親が「江戸詰め(江戸にずっと居る家臣)」であったので、生粋の江戸っ子と言っていいでしょう。9歳頃から天然理心流道場・近藤周斎の弟子となります。剣にかけては非凡な天稟を持っており、同士永倉新八の回想によれば「新撰組の名だたる猛者達も沖田には子供扱いされた」「本気でやったら師匠の近藤もやられるだろう」と言われていたとの事です。剣の凄腕とは裏腹に、当人は冗談好きの陽気な性格で、よく子供達と遊んでいたようです。当時は不治の病とされていた結核を患っており若くして夭逝してしまう事から「病弱で色白の美青年」として描かれる事が多いですが、同時代の資料からは美青年であった事を裏付ける資料は出てきていません。

新撰組メンバー:【我武者羅と呼ばれた剣士】二番組組長・永倉新八

新撰組顛末記 (新人物文庫)

蝦夷(北海道)松前藩士の子ですが、沖田と同じく「江戸詰め」の子供であり、永倉もまた生粋の江戸っ子と言ってよいと思います。神道無念流・心形刀流等を修めた後、天然理心流近藤道場の食客となります。新撰組では二番組組長や剣術師範を務め中枢を成し、数々の戦いで活躍します。隊士の中では珍しく天寿を全うし、「新撰組顛末記」という書き物を残して新撰組再評価のきっかけを作っています。我武者羅な性格と名前の新八を組み合わせ「がむしん」と呼ばれていたそうです。

新撰組メンバー:【西南戦争まで戦い抜いた歴戦の勇者】三番組組長・斎藤一

明石出身とも江戸出身とも伝わりますが、身分は百姓ではなく武士の家系であったようです。剣の流派も伝わっておらず不明ですが、凄腕だった事は確かです。永倉新八をして「沖田は猛者の剣、斉藤は無敵の剣」と言わしめています。永倉同様戊辰戦争を生き抜き、維新後は藤田五郎と改名して警察官になっています。西南戦争にも警視庁抜刀隊の一員として参加し、西郷隆盛率いる薩軍と激戦を繰り広げています。2016年に晩年の斉藤一と思われる写真が発見されましたが、写真を見ると口を真一文字に結び、如何にも「剣客」といった風情が見て取れます。




新撰組メンバー:【親切者の「今弁慶」】四番組組長・松原忠司

播磨出身とも大阪浪人とも伝わります。剣の腕よりは柔術を得意としており、新撰組参加前は大阪で柔術の道場を開いていたそうです。八月十八日の政変では坊主頭に白い鉢巻を巻き、大薙刀を携えるという異様な風体で臨み、そこから「今弁慶」の異名を取りました。今弁慶の異名とは対照的に温厚な人柄であり、「親切者は山南・松原」との言葉が残ります。慶応元年の4月に四番組組長となりますが、その年の9月に死去。死因は不明ですが、自分が斬った浪人の妻と恋仲となってしまい、苦悩の果てに心中したとする「壬生心中」というエピソードが残っています。

新撰組メンバー:【甲州流軍学を修めた軍師】五番組組長・武田観柳斎

出雲国出身と言われており、本名は福田だったと伝わります。甲州流軍学(武田信玄の戦術を理想化したものと言われる)を修め、武田氏に因んで「武田観柳斎」と称しました。軍学師範として甲州流軍学による調練を担当しますが、幕府がフランス式兵制を取り入れると観柳斎の甲州流は時代遅れとなり隊内の立場は下落、それが元となったのか脱退してしまいます。脱退後も京に残って密かに倒幕活動を続けますが、慶応三年、鴨川銭取橋で暗殺。隊内での地位が下落したのは観柳斎が普段から上に媚び諂い、下にはねちねちと絡むという己の性格が災いしたと言われています。

新撰組メンバー:【淀に散った天然理心流の「兄弟」】六番組組長・井上源三郎

八王子千人同心(多摩郡八王子に配置された江戸幕府譜代旗本及び譜代同心による組織。旧武田家遺臣を徳川家康が召抱えたのが発端)出身。天然理心流では近藤や沖田より早く入門しており、兄弟子にあたります。十年ほどかかって免許皆伝を受けており、天稟は無いものの努力家であった事が伺えます。近藤・土方・沖田とは同門の「兄弟」として固く結ばれており、絶大な信頼関係が有ったと言われています。無口で、それでいて非常に人柄が良かったとも伝わります。無口な働き者として近藤・土方を良く補佐しますが、鳥羽伏見の戦いの際に淀千両松で腹部に敵の銃弾を受け戦死。享年四十歳でした。

新撰組メンバー:【謎の死を遂げた槍術師範】七番組組長・谷三十郎

備中松山出身、家が断絶した後故郷を出奔し大阪で道場を開いたと伝わります。三十郎には万太郎・周平という弟がおり、末弟周平は近藤勇の養子になっています。一説によると種田流槍術の師範で、十番組組長原田左之助の師匠だったとも伝わりますが、これは次弟万太郎のエピソードと混同されているものだとも言われています。末弟周平が近藤勇の養子となった事を鼻にかけ、隊内では嫌われていたとも。死因については新撰組から会津藩への届出で「祇園石段下で頓死」としか報告されておらず、明らかになっていません。

新撰組メンバー:【勇猛果敢な「魁先生」】八番組組長・藤堂平助

江戸出身で、旗本五千石の藤堂家の生まれと伝わります。十代半ばで北辰一刀流の目録(免許の一種)を取得、ほどなく天然理心流に入門します。新撰組八番組組長として池田屋事件などで活躍、常に先陣を切る事から「魁先生」と呼ばれました。同じく北辰一刀流育ちだった参謀伊東甲子太郎らと共に脱退、油小路で闘死してしまいます。実際の年齢よりもひどく若く見られる非常な美青年であったと伝わります。

新撰組メンバー:【伊東甲子太郎の実弟】九番組組長・鈴木三樹三郎

参謀伊東甲子太郎の実弟として伊東と共に新撰組に参加、のちに脱退し御陵衛士の一員となります。伊東暗殺後、油小路の乱闘を切り抜け、以降は薩摩藩の配下となって戊辰戦争を戦い抜きます。鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩一番隊として伏見奉行所の新撰組と戦いました。兄甲子太郎同様、学問や弁舌に優れていたものの、果断に富むタイプではなかった模様で、新撰組時はそれが元で九番組組長から降格させられたとも言われています。

新撰組メンバー:【「死損ね」と言われた短気者】十番組組長・原田左ノ助

伊予松山藩の中間(武士ではない、武家の奉公人)で、のちに出奔し天然理心流試衛館道場の門人となります。谷三十郎(次弟万太郎とも)に師事し、種田流槍術の免許皆伝を受けたと伝わります。非常な短気者で、中間時代に上司に「腹切る作法も知らぬ下司野郎」と言われて腹を立て、本当に腹を切って見せた為「死損ね左之助」とあだ名されました。最後は上野の彰義隊に参加して討ち死にしますが、生き延びて中国大陸に渡り、馬賊になったという異説もあります。




おわりに:新撰組のメンバー一覧をご紹介しました

如何でしたか?

新撰組は最盛期には260人もの人間が居たと言われていますが、資料が乏しく人となりが判らない人間も多数居ます。
ここでは、局長から各組組長といった大幹部をまずは取り上げてみました。

機会があれば随時紹介する人間を増やしていきたいと思います。