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三谷幸喜さんが脚本を描き、小栗旬さんが主演するということで話題を呼んでいる大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
三谷幸喜さん作品の大河ドラマと言うと、『新撰組!』『真田丸』といずれも人気作となっており、『鎌倉殿13人』も否が応でも期待してしまいますね。
今回の三谷作品は『新撰組!』『真田丸』と違い、お世辞にも有名とは言えない人物である北条義時が主人公になっています。
知る人ぞ知る北条義時とはどんな人生を送った人物なのでしょう。
その生涯を探ってみましょう。
この記事は3,900字ほどです。
6分ちょっとで、北条義時について知ることができます。
Contents
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』主人公・北条義時とは?
「鎌倉殿の13人」
時は鎌倉時代。
源氏の棟梁・源頼朝と志を同じくし、平家打倒に力を注ぎ鎌倉幕府の礎となった13人の侍。
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が亡くなった後もその意思を引き継ぎ、合議制によって二代将軍・源頼家を支える13人の侍が居ました。
ドラマのタイトルになっている『鎌倉殿の13人』とは、この13人のことを指します。
13人のなかには、北条義時の父である北条時政、源義経失脚の影響を作り出したことで有名な梶原景時、源頼朝の頭脳と言われた大江広元、三浦半島の有力御家人・三浦義澄など有名な侍が数多います。
北条義時はこれら有名な御家人のなかで最後まで生き残り、二代将軍・源頼家、三代将軍・源実朝を支え、鎌倉幕府体制を強固なものにしていくのでした。
北条義時と源頼朝
北条義時が15~6歳の時、都で平家との戦いに敗れた源氏の棟梁の嫡男・源頼朝が伊豆に流されてきます。
源頼朝は伊豆の地で一人の女性を見初め、結婚します。
この女性が後に「尼将軍」の異名を取り、北条義時の姉である北条政子でした。
この縁がきっかけとなり、北条義時とその父・時政は源頼朝と一緒に平家打倒の兵を挙げることになります。
挙兵初戦の石橋山の戦いでは平家方に大敗し、北条義時はこの戦いで兄・宗時を失います
ちなみに、この戦いの際、敗れて洞窟に潜んでいる源頼朝を梶原景時がわざと見逃したという逸話が残っています。
北条義時と源平争乱
石橋山の戦いで一敗地に塗れた源頼朝勢ですが、関東各地から「源氏の棟梁」に参戦する坂東武者の助けを得、急速に勢力を拡大していきます。
北条時政・義時親子も甲斐に赴き、甲斐源氏の有力者・武田信義を味方に引き入れることに成功します。
ちなみにこの武田信義は有名な新羅三郎源義光の曾孫にあたり、甲斐源氏四代目当主になります。
武田信義の子孫には戦国時代の高名な武将・武田信玄がおり、甲斐武田氏の家宝とされた「御旗楯無(日章旗と鎧)」は新羅三郎源義光から受け継いだものとされています。
甲斐源氏を味方につけた頼朝勢は富士川の戦いで平家に大勝、以降一の谷の合戦、屋島の合戦と平家を追い詰め、壇ノ浦の戦いで平家は完全に滅亡します。
北条義時は源頼朝の異母弟にあたり、源義経の異母兄となる源範頼の軍に加わり、活躍したと伝わります。
源頼朝死後の北条義時
平家打倒の悲願を果たし、鎌倉幕府を開いた初代将軍・源頼朝でしたが、建久10年(1199年)53歳の人生を閉じます。
鎌倉幕府は源頼朝の嫡男・源頼家が引き継ぎ、第二代将軍となります。
18歳とまだ若い二代将軍の暴走独断を恐れた幕府首脳は母方の北条氏を中心とした13人の合議制を敷き、ここに『鎌倉殿の13人』体制が確立される事になります。
ちなみに『鎌倉殿』とは源頼朝以来鎌倉幕府の棟梁を指す言葉として定着し、その意味において源頼家は「生まれついての鎌倉殿」だった訳です。
大河ドラマのタイトルにもなっている『鎌倉殿の13人』とは、源頼朝と苦楽を共にした13人であると同時に、源頼家を支えた13人でもある訳ですね。
「生まれついての鎌倉殿」であった源頼家は古今に類を見ない程の部芸達者でもあったと伝わります。
源頼家は比企家で育っており、母方の実家である北条氏よりも比企家を頼りにしていたという記録もあります。
13人の合議制は疎外された北条氏が巻き返しを図る為に敷いた体制とも言われていますが、これは一方の当事者である北条氏の記録にしか残っておらず、事実が否かは今もって判っておりません。
鎌倉幕府の混乱と北条義時
源頼家は二代将軍になったものの実権は与えられず、母方の実家である北条氏に反発をするようになります。これに対して北条氏は源頼家の弟である源実朝を担ぎ出すことを画策し始めます。
この頃から13人の合議制には不協和音が目立ち始めます。
まず最初に有力御家人の梶原景時が滅ぼされます。
梶原景時は先代・源頼朝時代から目付け役として御家人達の行動に目を光らせる役目を担っており、御家人達の恨みを買いやすい立場にありました。また、梶原景時の妻は一時期源頼家の乳母をしていたとも伝えられています。
御家人66名による連盟の糾弾状を受けた梶原景時を源頼家は庇い切る事が出来ず、梶原景時は一族もろとも滅ぼされます。
梶原景時の次は源頼家が育った家である比企一族が標的にされます。
源頼家が病に伏している間に、比企能員とその一族は滅ぼされ、この時に源頼家の嫡男・一幡も殺害されます。一幡の母は比企能員の娘・若狭局でした。
梶原景時・比企能員という有力御家人を滅亡させた北条時政・義時親子は源頼家を廃し、弟である源実朝を三代将軍に据えます。源頼家は幽閉され、修善寺で北条義時の手勢により暗殺されます。
三代将軍・源実朝、そして初代将軍・源頼朝の未亡人である北条政子を後ろ盾とし、北条義時は次第に「鎌倉幕府の最高権力者」へと上り詰めていきます。
このあたりから北条義時の地位は「執権」と呼ばれるようになり、執権政治を展開していくようになります。幕府の実権を掌握した北条義時はその後も有力御家人への攻撃姿勢を強め、健保元年(1213年)には源頼朝以来の重鎮・和田義盛を和田合戦にて滅亡させます。
和田義盛もまた、『鎌倉殿の13人』の1人でした。
承久元年(1219年)、三代将軍・源実朝は二代将軍源頼家の忘れ形見・公暁によって暗殺され、ここに源氏の正統は断絶してしまいます。
源氏の正統を失った鎌倉幕府と北条義時は新たな将軍として親王の下向を朝廷に要請しますが、後鳥羽上皇はこれを拒否、今度は鎌倉幕府と朝廷との対立姿勢が浮き彫りになっていきます。
承久の乱と北条義時
承久三年(1221年)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権・北条義時に対して追討の院宣を発します。
親王下向を巡って対立を深めたことが原因とも、武家政権という新興勢力に対して不興を覚えた朝廷側がもう一度権力をその手に戻す為に起こした戦いとも言われており、その真相は定かではありません。
1つ言える事は、この戦いが日本史上初の「朝廷対武家政権」の戦いであった、という事です。
上皇が院宣を発し挙兵した、という知らせに鎌倉の武士達は大いに動揺します。
が、北条政子が御家人達に対して「幕府創設以来の頼朝の恩」を大いに演説し、御家人達は北条義時を中心に結集したと言われています。
一説によれば、北条政子が集まった御家人達の前で涙ながらの大演説を行い、御家人達はその演説に感動して北条義時方につくことを決めたとも言われており、北条政子が「尼将軍」と言われる所以にもなったと言われています。
が、実際にはもっと打算的だったとも言われており、御家人達は冷静に状況を見極め、「鎌倉が勝つ」と損得勘定に基づいて判断し、鎌倉への支持を決めたとも言われています。
北条政子の大演説は非常にドラマチックな場面であり、この場面を大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でどのように描いていくのか、これは楽しみの一つでもありますね。
乱後の北条義時
承久の乱で勝利を収めた北条義時は、上皇方についた武士達の所領を全て没収、鎌倉方についた武士達に恩賞として下し、執権として最高権力者の地位を固めることに成功します。
が、乱の翌年、北条義時は陸奥守と右京権太夫の官位を辞し、無官となっています。
北条義時が敢えて無官の地位を選んだ理由は定かではありません。
無官となった後も精力的な活動を続けており、引退を決意した訳ではなさそうです。
元仁元年(1224年)、北条義時は62歳で急死します。
一介の流人であった源頼朝を父・北条時政、姉・北条政子と共に支え、源頼朝亡き後も一貫して「鎌倉幕府」を支え続けた北条義時。
北条義時の別称は「得宗」と言われています。「得宗」は北条義時の戒名であるとも追号であるとも言われており、その起源は定かではありません。
義時以降、北条氏惣領の家系は「得宗家」と呼ばれるようになり、その歴史は鎌倉幕府第14代執権にして得宗家9代目である北条高時が鎌倉・東勝寺で自害することでその歴史に幕を閉じます。
おわりに:『鎌倉殿の13人』の主人公、北条義時
『鎌倉殿の13人』の主人公、北条義時の生涯、如何でしたでしょうか。
北条義時にとって「鎌倉幕府」とは、父・姉、そして義兄にあたる源頼朝と共に作り上げた「作品」のようなものであったのかも知れません。
ライバルを次々と滅ぼしていく姿から、北条義時を「血も涙もない」と受け取られる方もいらっしゃるかも知れません。
が、これは現代に生きる我々の価値観に沿ったものであり、あの時代の鎌倉で「作品」を守り抜こうとするには「こうしなければならなかった」のかも知れません。
このあたりの人間模様を大河ドラマ『鎌倉殿の13人』がどう描いていくのか。
今から楽しみですね!