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幕末が生んだ不世出の天才剣士・沖田総司。
剣豪ひしめく新選組において、若干21歳(諸説あり)の若さで一番隊という最も重要な隊を任せられた、説明不要の剣士です。
同志・永倉新八をして「猛者の剣」と言わしめた沖田総司はどんな名言を残したのでしょうか。
剣の達人、沖田総司が残した名言を史実・劇中の両面から探り、解説していきます。
沖田総司の名言①:鬼の師範代
「刀で斬るな!体で斬れ!」
沖田総司
沖田総司は9歳で天然理心流試衛館道場に入門し、一説では15歳で既に塾頭になったとまで言われています。
その剣の才能は確かで、「晩年必ず名人に至るべき人なり(小島鹿之助)」「局中第一等の剣客なり(西村兼文)」など、複数の人にその腕を評価されています。
沖田総司の稽古は「荒っぽくてすぐ怒る」と評判で、師範の近藤勇より恐れられていたと言います。
「刀で斬るな!体で斬れ!」は、「小手先に頼るな。命を捨てて敵を斬れ」という教えとも受け取れ、この信念こそが沖田総司を「不世出の天才剣士」に育てあげたのではないでしょうか。
沖田総司の名言②:死を身近に感じたからこそ?
「大刀を損じれば小刀を抜きなさい。小刀を損じれば鞘で、鞘を損じれば素手でも戦いなさい 。戦場では誰も待ってはくれないのですよ」
沖田総司
沖田総司の残した名言と言われていますが、出展は不明です。
「体で斬れ!」と荒っぽい稽古をしていた人間と同じ人間が発した言葉とは思えません。が、沖田総司は良く知られているように、25歳くらいで肺結核を発病しています。
若い頃は体も頑健で、荒っぽい稽古をしていた沖田総司も、肺結核を発病してからは「死」というものを身近に感じるようになり、後輩や門人に対して「何があっても死んではいけない」と優しく教え諭すようになったのではないでしょうか。
そう考えると、この言葉、自分の死が間近に迫っているからこそ、「私はもうすぐ死ぬが、貴方達は死んではいけない」と慈愛をもって沖田総司が言った言葉のように思えてきますね。
沖田総司の名言③:辞世の句
「動かねば 闇にへだつや 花と水」
沖田総司
沖田総司の辞世の句とされている一句です。
諸説ありますが、花を自分自身、水を土方歳三、闇を死と例え、「死ぬことによって土方歳三との別れを惜しんだ句」だと言われています。
冒頭の「動かねば」は「戦えなければ」という意味とも言われており、「このまま戦えなければ、土方さんと離れ離れになってしまう」という嘆きが込められているとも言われていますね。
実は、この句が本当に沖田総司が詠んだものかどうかははっきりしていません。
ですが、「動かねば」の一節が「もう動けなくなった自分」を表しているようで、何とも物悲しい雰囲気が沖田総司にぴったりといった感じです。
沖田総司の名言④:最後の最後まで
「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」
沖田総司
沖田総司は死の間際、庭に現れる黒猫を斬ろうとして何度も失敗し、看護をしてくれている老婆にこう言って嘆いたと言われています。この話は作家・子母澤寛氏の創作とも言われています。
江戸時代には「黒猫を飼えば結核が治る」という迷信があったと言われており、沖田総司の周りに黒猫が居た可能性は否定し切れないものの、「治る」と言われている黒猫を果たして沖田総司が斬ろうとするかな?という疑問は拭えません。
15歳で塾頭を務めるほどの腕を持ち、池田屋事件など数多の死地を飄々と乗り越え、「猛者の剣」「天才的剣法者」とも言われた程の沖田総司。
その自分が、結核などという病に殺されようとしている。それならばいっそのこと、(治ると言われている)黒猫を切り捨てて、自ら死を手繰り寄せてやる。
仮に沖田総司がそう思ったとしたのであれば、黒猫を斬ろうとしたのも頷ける話ではありますね。
おわりに:沖田総司の名言、いかがでしたか?
沖田総司の名言、如何でしたか?
不世出の天才剣士と謡われながら、病のために若くして世を去ることを余儀なくされた沖田総司。
新選組が屯所とした壬生村界隈には「いつも冗談を言って笑っていた陽気な青年で、よく子供達と遊んでいた」というエピソードが残されていたそうです。
沖田の明るさとはどこからきていたのでしょうか。
残された数々の名言をみると、その明るさとは「自分の死に対して悟り切っていた寂しさ」から来ていたように思えてなりません。
沖田総司が今なお人々の敬愛を集めているのは、実はこの「寂しさ」に要因があるのではないでしょうか。