※本サイトはアフィリエイト広告を利用しています。
新撰組「鬼の副長」と呼ばれた土方歳三。
流派天然理心流では免許皆伝までは辿り着けず、目録までしか取得していません。(※)
これは、歳三がそもそも色んな流派を渡り歩いており、天然理心流の「型」が出来ていなかった為と言われており、実戦の腕は立ったのだと思います。そうでなければ剣豪揃いの新撰組で「副長」の地位は得られません。
歳三の愛刀として有名なのは「和泉守兼定」と脇差「堀川国広」です。
歳三が使っていたとされる堀川国広は残念ながら現存していませんが、和泉守兼定は現存しており、今も見る事が出来ます。
最期の地函館まで肌身離さず帯びていた和泉守兼定を始め、歳三の愛刀として今に残るものを中心に見ていきましょう。
※天然理心流の免許は下から順に切紙、序目録、中極位目録、免許、允可、指南免許になっており、歳三が取得したのは中極位目録と言われています。
Contents
土方歳三の愛刀は4本【概要と読み方】
土方歳三の愛刀とされるのは4本と、その読み方は以下の通りです。
- 和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)
- 大和守源秀国(やまとのかみみなもとのひでくに)
- 越前康継(えちぜんやすつぐ)
- 堀川国広(ほりかわくにひろ)
土方歳三の刀①:【最後の愛刀】和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)
刀匠・和泉守兼定は実は二流派あると伝えられてます。室町時代に美濃で活躍した流派と、江戸時代末期に会津で活躍した流派(会津兼定)であり、歳三のものは会津兼定で会津藩主松平容保から下賜されたものと伝わります。歳三と共に京都から函館まで戦い抜き、歳三戦死の直前に小姓・市村鉄之助の手によって遺髪・写真・手紙と共に日野の生家に届けられています。
現在東京都日野市の土方歳三資料館に展示してあるのはこの刀です。
土方歳三の刀②:【盟友に託した愛刀】大和守源秀国(やまとのかみみなもとのひでくに)
出典:霊山歴史館
刀匠・大和守源秀国もまた、会津兼定と同様に会津藩お抱えの刀匠でした。京都の頃、歳三が秀国に打たせたものと伝わります。のちに歳三から会津藩士・秋月登之助に贈られ、表に「会津種明懇望帯之」、裏には「幕府侍土方義豊戦刀」の文字が残ります。
戦乱をくぐり抜けて現存し、京都の霊山歴史館に展示されています。
土方歳三の刀③:【葵紋付きの愛刀】越前康継(えちぜんやすつぐ)
越前康継はその名のとおり越前の刀匠で、徳川家康の次男・結城秀康のお抱え刀匠でした。卓越した技術を評価され、徳川家の家紋である「葵のご紋」を彫る事を許されてます。伝承によれば、歳三が松平容保から拝領し、歳三の姉が嫁いだ日野の佐藤彦五郎の息子・源之助に贈ったと伝えられています。
東京都日野市の佐藤彦五郎新撰組資料館に展示されています。
土方歳三の刀④:【実戦用の大脇差】堀川国広(ほりかわくにひろ)
刀匠・堀川国広、本名は田中国広といい、始めは日向(宮崎県)の戦国大名伊東氏の家臣だったと言われています。のちに京の堀川一条に移り住んだことから堀川国広と呼ばれるようになりました。歳三が帯びていたというのは、近藤勇から佐藤彦五郎に送った手紙のなかに「土方歳三の脇差は堀川国広、一尺九寸五分」と記されている事に由来します。一尺九寸五分は約60cm。通常の脇差は40cm程度ですので、実戦で太刀が折れた時用に長い物を帯びていたのでは?と言われています。
【土方歳三と愛刀】小姓に託した ”刀” と “メッセージ”
函館戦争も終局に近づき、いよいよ五稜郭も陥落か、となった頃、歳三は1人の青年を呼びます。
青年の名前は市村鉄之助。2年前に新撰組に入隊した歳三の小姓です。入隊時、まだ14歳だったといいますからこの時点でも若干16歳。青年というよりは「少年」です。
若干16歳の少年でありながら、鳥羽伏見から甲州勝沼、会津、そして蝦夷地と歳三と共に健気に戦い抜いてきた市村鉄之助。歳三もこの少年を愛し、「頗る勝気、性亦怜悧(すこぶるかちき、せいまたれいり。物凄く気が強くて賢いという意味)」と評しています。
この少年を死なせてはいけない。歳三はそう思い、故郷日野への使者を託します。託するものは遺髪、函館で撮った自分の写真、手紙。そして、歳三と常に共にあった愛刀・和泉守兼定。
市村鉄之助は泣きじゃくり、反対します。「副長と共に死なせて下さい」。そう懇願する市村鉄之助に歳三は「命令に背いたら切腹という法度を忘れたか」と怒号します。愛刀・和泉守兼定を託す意味を判ってくれ。死なせたくは無いのだ。それが歳三の本心だったのでしょう。
市村鉄之助は官軍の包囲網を掻い潜り、約2ヶ月後に日野に到着します。佐藤彦五郎屋敷に到着すると、歳三の位牌に向かって「副長」とこぼすなり突っ伏し、泣きじゃくったと伝わります。
鉄之助はその後2年ほど日野に匿われ、故郷近江に帰りますが若干20歳で病没したと言われています。一説によれば、維新の物狂いが収まらず、西南戦争に西郷軍として参加、戦死したとも伝わります。
「頗る勝気、性亦怜悧」な少年を道連れにするのは忍びなく、市村鉄之助を生かそうとした土方歳三。鉄之助に託したものは愛刀・和泉守兼定と、「生きろ」というメッセージそのものではなかったでしょうか。
おわりに:土方歳三と共に戦乱を生き抜いた愛刀たち
如何でしたでしょうか?
土方歳三と共に戦乱を生き抜いた愛刀。そのうち3本は今も見る事が出来ます。
剣に夢を託し、剣に生き、剣に死んでいった土方歳三。
現存する3本の愛刀を鑑賞し、歳三が剣に託した「見果てぬ夢」を追ってみるものいいかも知れませんね。