※本サイトはアフィリエイト広告を利用しています。
新撰組局長・近藤勇。
映画やドラマなどでよく「今宵の虎徹は血に飢えている」という台詞があるとおり、近藤は名刀・長曽祢虎徹を愛刀としていたことで知られます。
近藤勇と言えば虎徹と言われるぐらい有名なのですが、果たしてそれ以外に愛刀は無かったのでしょうか?
現存するのか否かなどを含めて、探って行きたいと思います。
Contents
近藤勇の刀は全部で2本【エピソード&現存の有無】
近藤勇の刀①:【最上の大業物】長曽祢虎徹(ながそねこてつ)※現存しません
近藤勇が虎徹を愛刀としていたという根拠は、池田屋事件後に養父・近藤周斎に充てた手紙を元としています。
池田屋事件の激闘を物語るかのように、「永倉の刀は折れ、沖田の刀はぼふし折れ、藤堂の刀は刃切れささらの如く」と仲間の刀が殆ど折れたり刃こぼれが甚だしかったことを伝えた後、「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」と、「自分の刀は虎徹だった為か、無事でした」と書いているのです。
虎徹とは、江戸時代前期に活躍した刀匠・長曽祢興里の手によって打たれた刀を言います。その切れ味は凄まじく「新刀第一の名工」「最上大業物」と言われますが、当時から既に国宝級の扱いを受けており、非常に高価で贋作も多かったと言われています。
自ら「下拙刀は虎徹故」と記してはいるものの、近藤勇が持っていた虎徹も「贋作ではなかったか」という話しが後を絶ちません。
その根拠として、近藤の虎徹は無銘(銘を彫っていない物)だったという話しもあります。
近藤が虎徹を入手したという経緯は諸説あり、判然としません。
虎徹は大名クラスでも入手困難な名刀であり、一介の浪人部隊の隊長が入手出来るようなものでは無いとも良く言われています。
ですが、近藤ほどの剣客で、刀の目利きも確かな人物が贋作を見抜けなかったのかというところに、ちょっと疑問を感じるんですよね。
池田屋事件を考えてみると、近藤勇は真っ先に邸内に踏み込んでいます。
つまり、折れたり刃こぼれしたりした永倉・沖田・藤堂よりも、「近藤と虎徹」はより長い時間剣戟を繰り返している訳です。
事実だけを言えば、「誰よりも長い時間戦った近藤の虎徹だけは折れなかった」という事になる訳です。
この事実だけを持って、近藤の虎徹は本物だったとは勿論言い切れませんが、それにしても「相当丈夫な業物」であった事は間違いない訳です。
近藤始め新撰組の面々は豪商・鴻池屋等と非常に懇意にしていました。
豪商達からすれば、押し借りを繰り返す尊攘派浪士から店や大事なお金を守ってくれる新撰組の面々は、頼もしい傭兵のようだった事でしょう。
江戸時代も末期ともなれば、各地の大名は資金難に喘いでいます。
大名達が借金の肩に名刀を豪商に渡したとしても不思議ではありません。
名刀を貰っても剣術など全く知らない豪商にしてみれば正に豚に真珠、まして世は不景気で高価な刀などは売り物になりません。
手に余る名刀を持っていた豪商が、贔屓の傭兵部隊の隊長に「くれてやった」という事は大いに有り得る事だったのでは無いかと思います。
そう考えると、近藤の虎徹も案外本物だった可能性も高いのでは?と思われますね。
ちなみに、近藤が帯びていたとされる虎徹は現存していませんが、長曽祢興里が打った虎徹は刀剣美術館や京都国立博物館などに現存しています。
近藤勇の刀②:【近藤勇最後の愛刀?】阿州吉川六郎源祐芳(あしゅうきっかわろくろうみなもとのすけよし)※現存します
出典:霊山歴史館ホームページ
近藤勇が最後の愛刀としていたとされる刀が見つかったというニュースもあります。
この刀は「阿州吉川六郎源祐芳」と銘打たれ、今の徳島県阿南市で江戸時代に活躍した刀匠・吉川祐芳の手によるものとされています。
刀の裏面には「慶応元丑年八月」と銘が彫られていることから、慶応元年(1865年)に打たれた刀である事が判ります。
刀を入手したのは松江豊寿という人物で、刀の鞘には松江豊寿が入手した経緯を記した覚書が残されています。
それによれば、流山で斬首された近藤の首は京都三条河原に晒されますが「下僕、首ヲ盗ミ生前ノ愛刀ナリシ此ノ刀ヲ持チテ会津ニ走リ密カニ葬ル」と記されており、文末に「陸軍少将 若松市長 松江豊寿」と記されています。
松江豊寿は会津若松市で会津藩士の家に生まれ、陸軍士官学校に進んで日清・日露戦争にも出征しています。
その後第一次世界大戦時には俘虜収容所の所長となり、接収された俘虜達に対し人道に基づいた待遇で接し、「世界のどこに松江のような素晴らしい所長がいただろうか」と語られるほどだったと言います。
松江のこの人道的な待遇の基礎となる良心的な人格形成には、賊軍として辛酸を舐め尽くした会津藩士の家に生まれた事が元となっているとも言われています。
同じく賊軍とされ、それでも最後の最後まで幕府や会津藩の為に戦った近藤勇に哀悼の意を持ち、発見したこの刀を後世に残したいと考えたのかも知れません。
吉川祐芳が打ったとされる慶応元年と言えば、新撰組の絶頂期。
一地方の刀匠とは言え、その地方では「業物」とされている刀を有名にしようと、今をときめく新撰組局長に誰かが寄贈したというのは大いに有り得る事でしょう。
刀はその後、松江豊寿の子孫から人伝に霊山歴史館に渡り、今も現存しています。
松江が入手経路を示した覚書も残されています。
近藤勇と愛刀
近藤勇は幼少の頃に先代・近藤周斎に見込まれて四代目天然理心流の宗家となるべく養子に迎え入れられているほど、剣の才能に恵まれていました。
竹刀剣術ではさほど強くなかったが、実戦となると滅法強かったとも言われています。
また「隙があれば刀剣の話しをした」と言われるほど剣術と刀を愛していました。
愛刀虎徹一本を頼りに、浪士が群がる池田屋の階段を真っ先に駆け上がる近藤勇の後ろ姿こそ、剣に生き、剣と己の実力だけを信じた豪胆そのものの男の後ろ姿と言っていいと思います。
おわりに:誰より”剣客”だった近藤勇
近藤勇は新撰組の末期、伊東甲子太郎率いる御陵衛士の残党に狙撃され、右肩の骨を砕かれてしまいます。
伊豆韮山代官だった江川太郎左衛門は近藤勇を「武勇と豪胆とは、麾下九万(徳川幕府直轄の九万人)の士人中、勇ぞその第一位を占めたり」と評しています。
それほどの人物だった近藤勇ですが、右肩の骨を砕かれて剣が使えなくなって以降は往年の覇気も無く、甲州勝沼で敗れ、流山では自ら投降してしまっています。
近藤が近藤足る所以は、「新撰組局長」であったよりも「天然理心流四代目宗家の剣客」にあったのでは無いでしょうか。だからこそ、剣が使えないと判った瞬間に全ての覇気を失ってしまったのでは無いでしょうか。
その近藤が愛した虎徹や他の刀達。
どんな姿をしていたのか、いつの日かこの目で見れるといいなと思います。