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幕末最強の剣客集団として名を馳せ、斜陽にあった徳川幕府方で最強の武闘派集団とし
て活躍した新撰組。
一時は200人を越える人数を束ねていた新撰組の局長こそ、近藤勇その人です。
京都で活躍し、甲州勝沼で破れた後に下総流山で自ら投降し、最後は板橋の刑場で斬首
され、首は京都に送られて三条河原に晒されたと伝わります。
首はその後、近藤の旧部下によって持ち去られ、会津に埋葬されたとも言われています
がはっきりとした事は分かっていません。
そんな近藤勇の最後や、残された子孫について探っていきたいと思います。
Contents
近藤勇の最後は斬首刑…
近藤勇が覇気を失った?その契機とは…
近藤勇は新撰組局長である前に、天然理心流四代目宗家として稀代の剣術家という顔を
持っていました。近藤にとって、剣というのは特別過ぎる存在だった訳です。
その近藤は王政復古の大号令が発せられた慶応三年、伏見で旧御陵衛士の残党に狙撃さ
れ、右肩を粉砕骨折してしまいます。
時は正に徳川幕府から薩長を中心とする新政府に覇権が移ろうとしていた時期。
本来であれば、既に幕府側の重鎮となっていた近藤はこれから獅子奮迅の活躍をしなけ
ればいけない時期です。
が、右肩を砕かれて思うように剣が振れなくなっていた近藤は鳥羽伏見の戦いにも出陣
出来ず、新撰組を離れ大阪で療養生活を余儀なくされます。これ以降、近藤は往年の覇
気を失ってしまったように思えて仕方ありません。
近藤にとって「剣」とは、己の全てと言っても過言では無かったのでは無いでしょうか
。
「剣はもう使えぬ」と悟った瞬間、近藤は己の使命は終わったと感じてしまい、「武勇
と豪胆は(徳川配下の)9万人中第1位」とまで言われたその覇気を失ってしまったのか
も知れません。
近藤勇・土方歳三から「大久保大和」「内藤隼人」へ
京都から江戸に帰った近藤勇と土方歳三はそれぞれ徳川幕府譜代の名前を貰い、「大久保大和」「内藤隼人」と名乗りを変えます。
崩れ行く徳川幕府にしてみれば名前の乱発など痛くも痒くもないし、近藤勇と土方歳三にしてみても旧新撰組という悪名を背負って生きていけば新政府軍に睨まれ続ける。
それよりは大久保・内藤という名前に変えた方が生き延びやすいということで、幕府と近藤土方双方にとってこの改名はwin-winだった訳です。
実際、近藤勇と土方歳三は甲陽鎮撫隊として甲州勝沼に出陣するときに「大久保大和」「内藤隼人」という名前で出陣しています。
二百名近い兵を率いて甲州勝沼に出陣した「大久保大和」と「内藤隼人」ですが、圧倒的な新政府軍の兵力の前に木っ端微塵に破れ、江戸に逃げ帰ります。
江戸で新たに隊士を募集した「大久保大和」と「内藤隼人」は再起を図り、下総流山(千葉県流山市)に屯集します。
故郷から一緒に出てきた天然理心流の兄弟・井上源三郎は既に鳥羽伏見で討ち死に、同じく天然理心流の兄弟だった沖田総司は病重く江戸で療養中。
新撰組結党以来の仲間だった永倉新八・原田左之助は別部隊に合流と、幕末最強と謡われた往時の新撰組の面影は既に無く、新規募集の隊士のみが目立つ、もはや「烏合の衆」と言ってもいいような状態に成り果ててました。
盟友・土方歳三との訣別
一方、新政府軍ではこの流山屯集隊の情報を既に掴んでいました。幕臣・大久保大和と内藤隼人率いる一隊が流山に集結し、江戸を背後から狙っている、と。
この時、新政府軍総督府は板橋に本営を置いていましたが、急遽4月1日に出立、4月3日には流山に着陣し、新撰組の本陣を包囲します。
新政府軍参謀の薩摩藩士・有馬藤太はすぐに「どういう用件で流山に布陣しているのだ」と詰問の使者を送ります。
これに対し土方歳三は「治安維持の為に布陣している幕府の鎮撫隊だ」と答えますが、その幕府は既に新政府に恭順の意向を示しています。有馬藤太は当然のことながら、即時武装解除を求めます。
ここで近藤勇は新政府軍に投降するのですが、投降した理由は諸説あります。
1つは、「大久保大和が近藤勇その人とはバレていない。ここは一つ、大久保大和として投降し、堂々と申し開きをするべきだ」という土方の説得に乗った説。
もう1つは、近藤勇自身が戦うのに疲れ果て、ここで諦めたという説です。
どちらが真実なのか、確たることは判っておりません。
はっきりしている事は、近藤勇は下総流山で長年の盟友であり、幼馴染でもあった土方歳三と袂を分かち、一人新政府軍の陣地に赴いたという事実だけです。
近藤勇の最後と首の行方
近藤勇が投降した理由は今もって明確には判っておりません。
土方歳三の「大久保大和が近藤勇だとは判っていないはず」という説得に従って、堂々と申し開きをすべく投降したという説も信憑性はあります。
近藤勇は流山では捕縛されず、板橋まで連行され、そこで近藤勇だとバレて捕縛されたという説もあるからです。
ただ、近藤勇は流山の本陣を出る時既に懐中に辞世の句を用意していたという説もあります。この説が本当であれば、近藤勇は申し開きをするというよりは、既に死を覚悟していたという事になります。
いずれにしろ、はっきりしている事は近藤勇が投降した事により、残された土方以下の新撰組は無事に脱出出来たという事です。
投降した近藤勇は彦根藩士渡辺九郎左衛門や旧御陵衛士の生き残りである加納鷲雄らによって、幕臣・大久保大和その実は新撰組局長・近藤勇であると見破られてしまいます。
看破されたあと、近藤勇は板橋の刑場で斬首となります。
武士らしく切腹で散ることも許されず、罪人扱いの斬首となってしまうのです。
首はその後京都に送られ、三条河原で三日間晒された後、京都東山に埋葬されたと言いますが、詳細は不明です。
一説に寄ると、近藤勇の下僕が密かに盗み出し、愛刀と共に会津の寺に埋葬したと言われ、その説を裏付けるような覚書も京都の霊山歴史館に残されています。
胴体の方は処刑された夜に滝野川の寿徳寺墓地に埋葬されたと伝わりますが、夜陰に紛れ近藤の縁者が掘り出し、実家宮川家の近くの寺に埋葬されたとも伝わります。
近藤勇のお墓はどうなった?
近藤勇の墓は各地にあります。
まず一つ目は、縁者が胴体を埋葬したと言われる東京三鷹市の龍源寺です。
ここは近藤勇の出身地である調布市野水のすぐ近くです。
また、首を持ち出して埋めたと伝わるのが福島県会津市の天寧寺です。
更に山形県米沢市にも遺体の一部を葬ったとされる高国寺に墓所があります。
最後の地となった板橋刑場近くの寿徳寺にも旧新撰組隊士永倉新八が建立したとされる墓所があります。
そして三鷹市の龍源寺には近藤勇の辞世の句が刻まれた句碑が建てられています。
近藤勇に子孫はいる?
近藤勇は近藤家に養子に入る前、宮川家で生まれました。
近藤の死後、近藤の長兄・宮川音五郎の次男勇五郎が近藤家の養子に入り、近藤勇と妻・つねとの間に生まれた「たま」と結婚し、長男・久太郎を生みます。
たまはその後25歳で亡くなり、久太郎も日露戦争で戦死してしまう為、嫡流の子孫は途絶えてしまいます。
しかしながら、実家宮川家は代々農家を続けており、現在も都内にお住まいです。
そのうちの一人、一族の宮川清蔵氏は天然理心流九代目宗家を勤めていたとの事です。
おわりに:「斬首刑」でも近藤勇の最後は潔い
近藤勇は板橋の刑場で斬首され、刑場の露と消えます。
武士らしく切腹することも許されず、罪人と同じ「斬首」とは、近藤勇の無念は如何ばかりだったでしょう。
近藤勇は斬首と決まった後も騒ぐことなく、落ち着いて「武士らしく」最後の時を迎えたと伝わります。
近藤の辞世の句は七言律詩と言われる漢詩で作られています。その最後の二節は
「快受電光三尺劔 只將一死報君恩」
(快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん)
とあります。
無念ではあったでしょうが、それをおくびにも出さず、ただひたすら君恩だけを考え、悠然と死に赴く。
「天晴れな武士」と評価を受けた近藤勇ならではの立派な死に様と言えるのでは無いでしょうか。