日本史の偉人

沖田総司の死因は結核だったのか?【お墓や子孫の存在は…】

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「幕末最強の剣士」とも謡われた沖田総司。

新撰組発足直後から一番隊の組長を任され、数々の剣戟で活躍したと伝わりますが、結核を患いわずか24歳(27歳説も有り)でこの世を去ります。

天賦の才に恵まれながら早世した不世出の天才剣士、沖田総司の最期とは如何なる感じだったのでしょうか。また、そのお墓の場所や子孫の有無などはどうだったのでしょうか?

今回は謎の多い沖田総司の最期について見ていきたいと思います。

沖田総司の死因は結核だった?

沖田総司 (新人物文庫)

池田屋事件の最中に吐血したとされる沖田総司…

池田屋事件は元治元年(1864年)に勃発した、新撰組と尊皇攘夷派による斬り合いです。

新撰組は局長・近藤勇が沖田総司、永倉新八、藤堂平助ら10名を率いる一隊と、副長・土方歳三が井上源三郎、斉藤一、原田左之助らを率いる24名(12名説も有り)と、隊を二つに分け、尊皇攘夷派が会合を開いていると見られる場所を片っ端から捜索します。

先に会合場所を突き詰めたのは近藤隊でした。
近藤勇は二十数名居ると見られる尊皇攘夷派の会合場所・池田屋のなかに近藤・沖田・永倉・藤堂のわずか四人で斬り込みます。
敵が何人いるか正確な情報を掴めていない中で、土方隊の到着を待っていては機を失うと考え、わずか四人で斬り込んだ近藤の勇気は尋常ではありません。

沖田総司はこの池田屋事件時、尊皇攘夷派の志士を一人斬り伏せた直後に吐血して倒れたと言われていますが、これには異説もあります。

沖田吐血の話しは永倉新八が維新後に記した「新撰組始末記」と見られますが、「新撰組始末記」には「喀血・吐血」という文字は見られません。
沖田が「池田屋で昏倒」とは書かれています。

沖田総司の死因が結核と言われた理由は?

慶応二年(1866年)、池田屋事件から二年後のこの年に幕府御典医(幕府お抱えの医者)松本良順が新撰組を集団検診した際に「肺結核の者が一名居た」と記しており、これが沖田のことだとも言われています。
慶応三年頃の記録から沖田が病気を患った記録が増えてきており、故郷多摩の有力援助者であり、同じ天然理心流の同門・小島鹿之助が近藤勇に送った手紙にも沖田の病状を気遣う文面が見られます。

永倉新八が明治二年に記した「浪士文久報国記事」にも沖田が呼吸器系の疾患を患っている事が記されており、何らかの病気を患って戦列を離れたことは確かであるものの、その病気が「結核である」と裏付ける決定的な記述は見当たりません。

沖田総司が確実に「戦列を離れた」と確認出来るのは、慶応三年の十二月のことです。
この年、伊東甲子太郎を首領としていた新撰組脱退組で形成された御陵衛士の生き残りが、「伊東の仇」と近藤勇を狙い、狙撃されたという事件が起きます。

この時、本来であれば出動するはずの沖田が動けず、沖田の率いていた一番隊は二番隊組長永倉新八に率いられて出陣しています。
沖田が死んだのは慶応四年の五月の事ですから、この時からわずか半年後には亡くなっている訳です。

同時代を生きた長州藩出身の志士・高杉晋作も結核を患い、喀血からわずか七ヵ月後に亡くなっています。

沖田の発病が慶応三年の秋頃だと仮定すると、沖田も高杉同様、発病から一年も経たずに亡くなっていることになります。

この仮定が成り立つのであれば、池田屋で吐血したというのは俗説に過ぎず何か他の理由で昏倒した、となる可能性が高いです。

しかしながら、発病から死期までの期間が高杉同様に非常に短いということで、結核であったことは事実ではないかと思われます。




沖田総司の最期の地はどこか?

鳥羽伏見で一敗地に塗れた新撰組は江戸に帰ることになりますが、この時に沖田も一緒に江戸に帰っています。

が、江戸帰還後に新撰組が甲陽鎮撫隊として参加した甲州勝沼の戦いには参加出来ず、江戸で療養を余儀なくされます。

沖田はそのまま病に打ち勝つことは出来ず、短い生涯を閉じるのですが、その最期の場所も諸説あります。
いずれの説も先述した幕府御典医・松本良順の手によって匿われたというのは同じなのですが、その匿った場所が「浅草今戸の今戸八幡(今戸神社)」か「千駄ヶ谷の植木屋柴田平五郎宅」と言われています。

今戸八幡は当時松本良順が宿としていた場所であり、ここから目と鼻の先にある称福寺を野戦病院として幕府方負傷兵の治療に当たっていました。
永倉新八が晩年に記した「同志連名記」には「浅草今戸の松本良順先生宿にて病死」と記されています。

一方、千駄ヶ谷説には、近藤勇の娘婿、近藤勇五郎の談話として作家・子母澤寛氏の「新撰組遺聞」に「植木屋柴田平五郎宅、川のそばの離れに匿われていた」と出てきます。
こちらは古地図上で母屋と離れが確認出来、近藤勇五郎が述べた「離れは八~十畳ほどの広さ」とも一致すると言われています。

結核は感染症ですし、治す為には空気の綺麗なところでの静養が必要とされていました。

その観点でいえば、人通りが多く猥雑な浅草近辺より、当時はまだのどかな田園風景が広がっていた千駄ヶ谷の川のそばで静養していたと考えるのが妥当かも知れません。

沖田総司はそこで生涯を閉じますが、実はその二ヶ月前に尊敬する近藤勇は既に世を去っていました。庭に来ていた黒猫を切れずに「婆さん、あの黒猫は今日も来ているんだろうなぁ」というのが最後の言葉とも言われていますが、これは子母澤寛氏の創作というのが一般的な見方です。

それよりも、「先生(近藤勇のこと)はどうされましたか?お便りは有りませんか?」と、近藤勇のことを気にかけながら死んでいったとされる説の方が信憑性が有るように感じられますね。

沖田総司のお墓はどうなった?

沖田総司は亡くなった後、生誕地と伝わる奥州白河藩下屋敷近くの専称寺に葬られます。

専称寺は東京・港区元麻布に現存するお寺で、沖田の墓石も現存しています。
ですが、墓石を削って持ち帰るなどしたファンが居たり、お寺に迷惑をかけるような事態が続出したため、現在は墓地自体が非公開になっています。

年一回、「沖田総司忌」の時だけ一般公開されていますが、諸々注意事項がありますので、気になる方は調べてみてください。

なお、専称寺への電話や問い合わせは厳禁となっています。
くれぐれもご留意ください。




沖田総司に子孫はいる?

沖田総司には子供が居なかったため、直系の子孫は存在していません。
ですが、沖田の姉ミツの家系が残っています。

沖田ミツは八王子千人同心・井上林太郎(ミツと結婚した事により沖田家の家督を継いだので沖田林太郎と称される)と結婚し、長男芳次郎を生んでいます。

沖田林太郎は庄内藩御預かりの新徴組に属し、組頭として江戸市中警護に当たったりしていますね。

沖田林太郎家はその後江戸を脱出して庄内へと渡り、戊辰戦争終結後に東京へと帰還します。林太郎はそのまま江戸で死去、ミツはその後、末の男児貞吉を頼って満州に赴き、そこで生涯を閉じます。

この沖田林太郎・ミツの子孫であり、ミツから数えて七代目にあたる阿野典子さんが2019年現在、ご健在との事です。

おわりに:未だに人気を博す沖田総司

幕末が生んだ不世出の天才剣士、沖田総司。

近藤勇・土方歳三らと共に駆け抜けたその太く短い一生は、人々の興味を引き付けて止みません。

沖田総司の魂は今、生まれ育った江戸の街の片隅でひっそりと眠っています。
そのお墓は年一回しか公開されていませんが、もしかしたらそれは誰よりも熱く早く駆け抜けた沖田総司に対して、静かにゆっくりと眠って欲しいという気持ちの表れなのかも知れません。

沖田総司の深い眠りを妨げることなく、静かにその菩提を弔っていきたいものですね。

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