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「日本近代経済の父」と呼ばれる渋沢栄一。
日本初の銀行を創設し、大小500以上の国内企業の創設に尽力し、社会公共事業にも尽力。
渋沢栄一の功績は近代日本の礎を語る上で外せません。
埼玉県深谷市が生んだ偉大なる人物、渋沢栄一の軌跡を辿ってみましょう。
この記事は3,300字ほどです。
6分程度で、渋沢栄一の功績や経歴を簡潔に知ることができます。
Contents
【結論】功績紹介
大河ドラマ「青天を衝け」主人公・渋沢栄一は何した人?
渋沢栄一の功績①:民部・大蔵両省の一員として
渋沢栄一は明治2年(1869年)、明治政府に招かれて大蔵・民部両省の一員となります。
官僚として働いた期間は約3年半と決して長くはありませんが、その間に数々の功績を残しています。
廃藩置県に伴う藩札の引き換え、簿記法・貨幣法の整備などお金にまつわる政策。
それだけに留まらず、長さなどの物理的単位である度量衡の統一などにも尽力しています。
日本が西洋に倣って完全にメートル法に移行したのは昭和33年(1958年)のことですが、その陰には渋沢栄一らの努力があったのです。
また、渋沢栄一が大蔵・民部両省の一員だった時代に残した最も大きな功績の一つが「国立銀行条例」の制定です。
この条例制定は渋沢栄一が大蔵・民部両省を辞めた後も関係してきます。
渋沢栄一の功績②:日本初の銀行設立
明治6年(1873年)、渋沢栄一は官を辞し、民間の経済人として活動を始めます。
その活動の開始が、自らが制定に尽力した国立銀行条例に基づいて設立した日本初の銀行「第一国立銀行」の創設でした。
第一国立銀行は後の三井財閥となる三井組、江戸時代の豪商であった小野組の出資によって開設され、渋沢栄一はその初代総監役(のちに頭取)として就任します。
第一国立銀行はその後何度かの統廃合を経て第一銀行や第一勧業銀行と名前を変えますが、今現在も連綿と続いています。今ある「みずほ銀行」こそ、渋沢栄一が初代総監役を務めた第一国立銀行の流れを組む銀行なのです。
渋沢栄一の功績③:約500社もの企業設立に尽力
渋沢栄一が設立に尽力したのは第一国立銀行だけではありませんでした。
金融業界は元より、交通やガスと言ったインフラ系や食品関係まで多岐に渡る約500もの企業設立に尽力しています。
代表的なものをあげると、まず日本鉄道という会社があります。明治14年(1881年)に設立された日本初の私鉄会社である日本鉄道は現在の東北本線や高崎線、常磐線などの礎を築き、その系譜は現在のJR東日本に繋がります。
明治18年(1885年)には東京瓦斯(ガス)会社を、浅野財閥創始者である浅野総一郎と共同で設立しています。東京瓦斯会社は当時東京府が担っていたガス事業を払い下げられる形で設立されました。この会社は今もそのまま、東京ガスとして残っています。
この他にも帝国ホテル、東京海上保険会社(現東京海上日動)、大阪紡績株式会社(現東洋紡)、共同運輸会社(現日本郵船)など、渋沢栄一が設立に尽力した会社は枚挙に暇がなく、その大半は現在も日本経済を支える重要な役割を担っています。
渋沢栄一の功績④:教育機関設立にも尽力
渋沢栄一の功績は経済界に留まりません。
実業家として辣腕を発揮した渋沢栄一ですが、幼い頃から論語を学び、それを自身の人生の指針としておりました。そのためか、教育の普及や支援にも積極的に関与し、東京高等商業高校(現一橋大学)や日本女子学校(現日本女子大学)、東京女学館などの設立にも尽力しています。
特に日本女子学校に関して言えば、設立後も経営面のみならず様々な面で援助を惜しまず、第三代の校長まで勤めています。
今なお日本を支える組織の名前がズラリ…!
渋沢栄一がいかに現代日本に影響を与えたかが分かりますね。
【もう少し詳しく経歴・功績を紹介】
大河ドラマ「青天を衝け」主人公・渋沢栄一とは何した人?
渋沢栄一は70歳で財界引退を表明するまで、日本の礎を作り上げる事に対しての情熱を無くす事なく、尽力を惜しみませんでした。彼の生涯とは如何なるものだったのでしょうか。
さらに詳しく見ていきましょう。
渋沢栄一の経歴と功績①:天領の地に生まれ
渋沢栄一は天保11年(1840年)、今の埼玉県深谷市血洗島に生まれます。
渋沢家は豪農の家庭でしたが、武蔵一帯は天領の地で、尚武の気風に溢れています。
渋沢家も例外ではなく、幼い渋沢栄一は5歳から父の教育を受け、7歳で四書五経や日本外史を学び、剣術は神道無念流を学んでいます。
21歳の時には神田お玉が池の北辰一刀流・千葉栄次郎の道場に入門、当時神田お玉が池に多かった勤皇志士と交友を結びます。
その影響からか、尊王攘夷思想に傾倒し、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちして幕府を倒すという計画を立てたりしています。
結局この計画は従妹や親族の懸命な説得により中止していますが、もし実行に移していたら後の日本近代経済の父・渋沢栄一は誕生しなかったかも知れません。
こうして見てみると、渋沢栄一は若い頃、血の気の多い人だったのかもしれません。
渋沢栄一の経歴と功績②:徳川慶喜の家臣へ
高崎城乗っ取り計画が親族に類を及ばぬよう、渋沢栄一は父から勘当を受けた体を取って京都に出ます。
当時京都は八月十八日の政変直後であり、勤皇派は凋落の一途を辿っていました。京都で勤皇活動を展開しようとしていた渋沢栄一ですが、行き詰ってしまいます。
やむ無く渋沢栄一は旧知の人間の紹介で一橋慶喜に仕えます。
一橋家の家臣として、一橋領内で農兵の募集に携わっていた渋沢栄一ですが、主君の慶喜は徳川宗家を継いで第十五代将軍に就任します。これにより、渋沢栄一の身分も一橋家の家臣から幕臣にと変わります。
渋沢栄一の経歴と功績③:パリ万博と欧州各国歴訪へ
幕臣となった渋沢栄一は、将軍の名代としてパリ万博に出席する慶喜の異母弟・徳川昭武の随員としてフランスへと渡航します。
パリ万博を視察したのちも、昭武に随員して欧州各国を歴訪し、各地で先進的な産業を見て感銘を受けます。のちの渋沢栄一の経済活動への情熱と基礎はこの時に培われたと言っても過言では無いでしょう。
渋沢栄一の欧州での生活は約1年半にも及びますが、思わぬ形で帰国の命令を受けます。
大政奉還です。
渋沢栄一の経歴と功績④:新政府に出仕、そして民間へ
渋沢栄一が帰国した時はすでに大政奉還されており、幕府は瓦解しておりました。
渋沢栄一は帰国後すぐに静岡に謹慎していた慶喜と面会しますが、慶喜からは「これからはお前の道を行きなさい」と説かれます。
渋沢栄一はその後静岡で商法会所を設立し、民間の企業人として経済活動の第一歩を踏み出そうとしますが、後に早稲田大学の創設者となる大隈重信に説得され、商法会所設立からわずか9か月後に大蔵省に入省する事になります。
当時、大蔵省と民部省は事実上統合されており、渋沢栄一は大蔵官僚として民部省改正掛を率い、改革案の企画立案に携わったりしました。
渋沢栄一はこの官僚時代に、国立銀行条例などの様々な条例制定に尽力しますが、予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立、わずか3年半で退官します。
その後は民間の経済人として活動を開始、前述した国立第一銀行の設立など様々な功績を残します。
齢70歳に達するまで精力的に活動を続けた渋沢栄一ですが、70歳に達した時に財界引退を表明、昭和6年(1931年)、現在の東京都北区滝野川で92歳の生涯を閉じます。
意外にも血気盛んだった若かりし頃。幕臣になるも大政奉還。そして大蔵省に入省するも数年で退官…。
ここからさらに数々の偉業を成し遂げるのだから、やはり渋沢栄一はとんでもない人だったのですね。
おわりに:日本近代経済の父・渋沢栄一
「日本近代経済の父」という呼び名に恥じない数々の偉大な功績を残した渋沢栄一。
彼の凄さは、その時々に受けた「教え」を忠実に学び、その良いところをしっかりと吸収出来るという柔軟さと、それをきちんと実行に移すという行動力にあると思います。
凝り固まった考えに固執するのではなく、柔軟さを持って物事を受け止め、断固たる決意の元で実行に移す。
現代に生きる我々にとっても、渋沢栄一の生きた道はそのまま我々の生きる指針となるのではないでしょうか。
頑なにならず、しなやかに。そして、したたかに生きた渋沢栄一の姿はボク達も生きる指針にすべきですね!