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新選組三番隊組長・斎藤一。
人気漫画「るろうに剣心」にも登場し、歴史好き以外にも広く知れ渡った隊士の1人です。
維新前後の京都動乱から鳥羽伏見、会津戦争と戊辰戦争を戦い抜き、維新後は西南戦争にも従軍した歴戦の強者であり、「無敵の剣」と評された剣士だった斎藤一。
「無敵の剣」と謡われた男が愛した刀とは、如何なる刀だったのでしょうか。
Contents
新撰組・斎藤一の刀は全部で2本【名前とエピソード】
齋藤一の愛刀は2本あったとされています。
- 池田鬼神丸国重
- 関孫六
それぞれご紹介していきます。
斎藤一の愛刀①:【新刀中の業物】池田鬼神丸国重
刀工・国重は本名を大月長兵衛と言い、出身は備中国と言われています。
各地を転々とした後、摂津国池田に定住し、姓を池田に改め、「池田国重」と名乗ったと伝わります。
国重が活躍したのは江戸期。
江戸期の刀は「新刀」と称され、国重の刀はその中でも「上作の業物」と評判でした。
「鬼神丸」は「きじんまる」とも「きしんまる」とも伝わりますが、通称のような物であり、摂州池田に住んでいた事から銘を「摂州住池田鬼神丸国重」と切っていたとされています。銘を切られていたのは大体「寛文」から「宝永」の年間ですので、1600年代後半から1700年代前半に活躍していたと推測されます。
斎藤一がこの刀を愛刀としていた根拠は、池田屋事件直後に刀を修理に出した記録が挙げられます。
京都・壬生の刀研師、源俊永が残した記録によれば、斎藤一の刀について「摂州住池田鬼神丸国重 二尺三寸一分 刃毀レ小サク無数」と書かれており、作られたのは天和2年(1682年)と書かれていたと伝わります。
多摩をルーツとする新選組の隊士が大阪の刀工の手に寄る刀を愛用するとはちょっと不思議な感じもしますね。
さらに言えば、局長・近藤勇が郷里に宛てた手紙の中で「剣は大坂者は決して御用いなさるまじく候」(訳:大阪の刀工の刀は使うな)と書いている事もあり、斎藤一は本当に池田鬼神丸国重を使っていたのか?という議論もあります。
斎藤一は江戸出身ではありますが、父が播磨国明石出身であり、斎藤自身も「明石浪人」と名乗っています。
もしかしたら、父親から「上方の刀も捨てたものでは無い」という話を寝物語に聞いており、大阪刀工の刀を敢えて選んだのかも知れませんね。
斎藤一が所持していたとされる池田鬼神丸国重は残念ながら現存していません。
が、国重の手に寄る刀は岡山県の倉敷刀剣美術館や函館の土方歳三函館記念館に残されています。
こちらの美術館で国重の作風を確認し、「斎藤一の刀もこうだったかも」と思いを馳せるのも面白いかも知れません。
斎藤一ほどの剣士の刀。やはりかなりの業物だったようですね!
でも、局長である近藤勇に逆らってまで使っていたのかはたしかに疑問……。
父の言葉を重んじたのか……、もしかしたら純粋に剣士として最高の一本を厳選した可能性も?
斎藤一の愛刀②:【最上大業物十四工の一つ】関孫六
斎藤一の愛刀ではないか?と言われているもう一つが「関孫六」です。
明治中期に人気を博した講談師の1人に「松林伯地」という人がいます。
この人は新選組生き残りの永倉新八などに取材して「新選組十勇士伝」という演目を編み出すのですが、この中の一文に「斎藤一においては、関孫六の一刀を引き抜き、エイとばかりに斬って落とした」というのがあるのです。
松林伯地という人は永倉新八から借りた「浪士文久報告記事」を返さなかったり、生き残りの1人で京都西本願寺で働いていた島田魁にも取材したのでは?という話も残っています。
「新選組十勇士伝」を作るにあたり、それなりに綿密な取材をしたのではないか?と思われている訳です。
その松林伯地が「関孫六の一刀を引き抜き」と言っているので、全く信憑性皆無という話でも無いのかも知れませんね。
関孫六は室町後期に活躍した美濃国・関の刀工です。
刀鍛冶の街として知られる関の中でも指折りの刀工で、最高の刀とされる「最上大業物十四工」の一つとされています。
「最上大業物十四工」には、近藤勇の愛刀とされる長曽祢虎徹や土方歳三の愛刀として知られる和泉守兼定なども入っており、まさに日本を代表とする名刀の一つと言っていいでしょう。
これほどの大業物を斎藤一がどこで手に入れたのだ?という疑問は残りますが、「無敵の剣」と言われた男にこれほど似合う剣も無いですね。
斎藤一は”新刀・池田鬼神丸国重”と”古刀・関孫六”の両方を愛用したのかもしれません。
状況によって使い分けていたなら、常に冷静で「機能としての刀」を愛していたとされる斎藤一にぴったりな気がしますね!
新撰組・斎藤一と愛刀のエピソード
斎藤一は維新後、警視庁に入ります。
明治十年(1877年)西南戦争が勃発、藤田五郎と名を変えていた斎藤一も警視庁の警察官で構成された警視隊の一員として従軍します。
西郷隆盛率いる薩軍は旧士族で構成されており、斬り込みでは無類の強さを発揮しました。対する官軍は徴兵された農民出身者が多く、薩軍の斬り込み突撃にはとても対抗し切れません。
慌てた官軍首脳は官軍内にも急ぎ旧士族を中心とした部隊を編制し、薩軍の斬り込み突撃に対抗しようとします。
こうして編制されたのが有名な警視庁抜刀隊であり、斎藤一こと藤田五郎もこの抜刀隊に参加したと伝えられています。
一説によれば、抜刀隊員は銃器の使用を認められず、「愛刀だけを携えて」いたと言われてもいます。
旧士族出身者で構成された抜刀隊は、精強を謡われた薩摩士族で構成された薩軍と互角の戦いを繰り広げ、遂には要衝・田原坂の奪取に成功します。
この時の戦いを当時の郵便報知新聞が報じており、旧会津藩士だった抜刀隊員が「戊辰の仇、戊辰の仇」と言いながら斬り込んでいったという劇的過ぎる話も伝わります。
実際には抜刀隊の大多数は外城士と呼ばれる旧薩摩藩郷士で構成されており、「薩摩人をもって薩摩人を討つ」というのが官軍首脳部の考えでした。
が、少数とは言え旧会津藩士が抜刀隊員として参加していた事も明らかになっており、旧会津藩士丹羽五郎のように氏名が明らかになっている者も存在します。
斎藤一こと藤田五郎は田原坂にどんな刀を携え、精強な薩摩隼人を相手にどのような「無敵の剣」を振るったのでしょうか。
戊辰の恨みが宿っていたであろうその時の斎藤一の剣先は恐らく鬼のようでは無かったかと想像されます。そう考えると、この時の斎藤一には鬼神の名を冠した「池田鬼神丸国重」が最も似合うように感じられますね。
ずっと愛刀を携え続けた斎藤一。
やはり「無敵の剣」の二つ名が似合いますね。
おわりに:斎藤一の愛刀は今後さらに判明するかも?
2016年、晩年の斎藤一を写したと言われる写真が発見されました。
既に老齢の域に達してはいますが、鋭い眼光や引き締まった口元は、まさしく「剣客」という表情をしています。
斎藤一は、その口述を記録した「夢録」という文書を残したと言われていますが、現状で「夢録」は発見されていません。
2016年に発見された写真同様、今後「夢録」が発見されれば、斎藤一の愛刀もはっきりと判明するかも知れませんね。