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幕末最強の剣客集団と言われた新撰組、その中でも「最強の剣士」と言われたのが沖田総司です。
近藤勇・土方歳三と同じ天然理心流を学び、若くして塾頭を務めていたと言われています。
近藤は後に敵地長州に出向く際、万が一を考えて「自分に何かあったら新撰組は土方に、天然理心流は沖田に」と言い残しています。天然理心流四代目近藤勇として、「五代目は沖田に」と思っていた事を裏付ける逸話です。
沖田総司は剣豪ひしめく新撰組の中で最も重要な任務をこなしていたと言われる一番隊の組長を務め、数々の戦いで功績を挙げます。その剣の腕は同時代人にも評判だったらしく、「局中第一等の剣客」「天才的剣法者」「猛者の剣」など数々の証言も残されています。
まさに「天才剣士」と呼んでも良い沖田総司ですが、残念な事に結核を患ってしまい、若くしてこの世を去ります。没年は24歳とも27歳とも言われています。
幕末を閃光の如く駆け抜けた天才剣士・沖田総司。
その沖田が愛した刀として「菊一文字」の名が伝わっていますが、その他に愛刀は無かったのでしょうか?沖田ほどの剣客であれば、大事にしている愛刀は一本だけでは無いはずです。
沖田と共に幕末を駆けたと思われる愛刀を振り返ってみます。
Contents
沖田総司の刀は全部で4本【名前とエピソード】
沖田総司の刀は4本あったとされています。
- 菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね)
- 加州清光(かしゅうきよみつ)
- 大和守安定(やまとのかみやすさだ)
- 濤江之介正近(なみえのすけまさちか)
順番にご紹介していきます。
沖田総司の刀①:【鎌倉の古刀】菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね)
鎌倉時代、後鳥羽上皇のお抱え鍛冶中第一位だった言われる刀匠・則宗の作と言われています。後鳥羽上皇より十六弁の菊の紋章を入れる事を許され、銘を「一」とだけ彫っている事から「菊一文字」の愛称がつくようになったと言われていますが、実際は則宗が打った刀の中で菊の紋章が彫られているものは見つかっておりません。
則宗は当時でも非常に高価かつ品薄で、大名でも買い求めるのは至難の業と言われていました。沖田が持っていたというのは作家・子母澤寛氏の創作というのが通説です。
沖田総司の刀②:【池田屋で奮戦?】加州清光(かしゅうきよみつ)
加州とは「加賀国」を指します。清光は加賀国の刀匠で、沖田が帯びていたと言われているのは六代目に当たります。六代目清光は加賀藩が立てた弱者救済用の小部屋、いわゆる「非人小屋」で鍛刀していたことから「非人清光」と言われています。
池田屋事件で沖田と共に奮戦し、事件後沖田が鍛冶屋に修理を頼みましたが刀の先が欠けるなどしていて「修復不可能」と言われたという話しが残ります。
実際に沖田が何代目の清光を持っていたのかは明らかになっていません。幕末にも清次郎清光(十二代目清光)と呼ばれる名人が居りましたので、もしかしたらこちらの清光が作った刀だったのかも知れません。
沖田総司の刀③:【五つ胴斬り】大和守安定(やまとのかみやすさだ)
大和守安定は江戸時代に活躍した武蔵国の刀匠です。江戸時代の試し斬りは罪人の死体を固定して胴を斬ったのですが、他の刀は大概二つ三つの胴を斬れば良い方だったなか、大和守安定は五つ胴を斬れたと伝わります。
その切れ味の良さから幕末に人気が爆発し、近藤勇の愛刀だったと伝わる「虎徹」に良く似た特徴を持っていたことから、近藤勇を尊敬している沖田が気に入ったと言われています。
池田屋で加州清光が使い物にならなくなったとすれば、その後に沖田が差していたのはこの刀かも知れません。となると、山南敬助の介錯はこの刀でしていた可能性があります。
沖田総司の刀④:【故郷の名刀?】濤江之介正近(なみえのすけまさちか)
上記三本ほど有名では有りませんが、沖田にはもう一つ刀に関する不思議な伝承が残っています。
「沖田総司君の需め(もとめ)に応じ、文久三年八月、京に於いて、信濃国住人浮州之を鍛う」という銘が彫られた刀が実在していたという伝承がそれです。
伝承では「信濃国住人浮州」という刀匠は実在せず、これは「酒井濤江之介正近」という刀匠が用いた偽銘であるといいます。
濤江之介正近という人物は奥州白河の出身、武蔵国八王子小比企村で刀匠をしていたと伝わります。八王子には元々「武州下原(したはら)刀工」という刀鍛冶グループが居り、下原刀工の一族から天然理心流の師範も出ています。全国的には無名ですが、武州一帯の剣客達からすれば馴染みの深い刀だったのかも知れません。
また沖田の父・沖田勝次郎は元々奥州白河藩士でした。出身地が父と同じ濤江之介正近と何らかの関係があった可能性は十分に有り得ます。
父と同じ出身であり、武州一帯ではそれなりに名前が響いていたというところから、沖田が「武州下原刀匠・酒井濤江之介正近」の刀を差していた可能性は十分に有ると思います。
沖田総司と愛刀
沖田総司にまつわる逸話は作家・子母澤寛氏の創作による部分が多いと言われています。菊一文字の話しもそうですね。
その子母澤寛氏の創作の一つとも言われているのが「死の間際に黒猫を斬ろうとして斬れなかった」というものです。この話しも「創作だ」と言われていますが、一方で当時黒猫を飼うと結核が治るという迷信があったとも言われています。「青白い娘のそばに黒い猫」という川柳も残されていますし、沖田も結核を治してくれることを期待して死の間際に黒猫を飼っていた可能性も否めません。
「冗談ばかり言っていた」と言われる沖田ですが、稽古の時は教え方が乱暴でなかなか短気であったとも言われています。
死の間際で気が立っており、「せっかく飼ってるのに何で俺の結核を治してくれないんだ」と黒猫に腹を立て、斬ろうとした事ももしかして有ったのかも知れません。
天真爛漫を絵に描いたような若者でしたが死に挑んで癇癪を起こし、故郷からずっと一緒だった「酒井濤江之介正近」で最後に不届きな黒猫(病気を治してくれないという意味で)を斬ろうとし、「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と絶望のうちに死んでいく。
数多の戦闘で一度も遅れを取った事が沖田総司をして、最後の最後には猫一匹斬れなかった。そんな悲しい話しも有ったのかも知れませんね。
おわりに:天才剣士・沖田総司の愛刀は現存していませんが…
幕末が生んだ早世の天才剣士・沖田総司。残された数々の証言から彼が凄腕の剣客であった事は否定しようの無い事実です。
残念ながら沖田が差していたと言われる刀は全て現存していません。
沖田総司には子供は居らず、直系の子孫は存在していませんが、姉ミツの家系が残されています。
今後更に研究が進み、「これが沖田総司の刀だ」と言われるものが見つかる、そんな日が来てくれることを願って止みません。